天王山山頂付近にある十七烈士の墓、竜馬が行くを読んで一度は訪れたいと思っていた場所でした。
禁門の変とは
文久3年の八月十八日の政変で公武合体派の会津藩や薩摩藩が手を組み、尊王攘夷派である長州藩や公家を京都から追放するという事件がありました。翌年の平治元年6月5日に公武合体派からなんとか朝廷での権力を取り戻そうする尊王攘夷派の志士が新選組に討たれた池田屋事件をきっかけに、同年7月に長州藩兵約2000は京都の石清水八幡宮まで進軍しました。久坂玄瑞は長州藩の名誉挽回すべく嘆願書を幕府や朝廷に送りましたが、聞く耳をもたれず8日には退去命令がでました。この時に開戦慎重派久坂玄瑞と主戦派の来島又兵衛と真木和泉守との激論末に開戦することになり、19日に御所の北西の天竜寺に国司信濃隊、南西の天王山に益田右衛門介隊、南の伏見の藩邸に福原越後隊が陣取って三方面から進軍しました。もっと激戦だったのは御所の西側蛤御門での戦いでした。会津・桑名藩が守り固めていたのですが、来島又兵衛率いる国司隊はこれを破って一時は禁裏まで迫りましたが、駆け付けた薩摩藩が加勢すると形勢逆転し来島又兵衛も被弾しそのまま自害します。そのころ、南側でも益田隊が戦っていましたが、多勢無勢 となり戦局は悪化し久坂玄瑞は鷹司輔熙邸に朝廷に嘆願要請しましたが、これを拒否され自害しました。長州藩は総崩れになり一日で敗北しました。長州藩は撤退する時藩邸などに火をつけたため町の大半が失われたそうです。
十七烈士とは
敗走する長州藩は天王山まで撤退しましたが、新選組などの幕府軍と会津藩が追撃の手を休めませんでした。真木和泉守らは、長州に落ち延びて再挙を期すように諭すと真木和泉守以下十七名が踏みとどまり殿軍を務めました。この時には死を覚悟していたのではないかと思います。向かってくる会津・幕府軍と対峙して最後は壮絶な自害をしたのです。
真木和泉守の辞世の句
大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和
十七烈士の墓の行き方
阪急大山崎駅・JR山崎駅から天王山登山口徒歩5分、天王山ハイキングコースで徒歩60分程です。
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