【山崎の戦い】光秀最後の合戦 三日天下で散る

歴史
山崎合戦古戦場碑(天王山ほたる公園内)

天王山とは

京都市南部の大山崎町にある標高は270ⅿの小高い山です。天王山の地形は東の男山(八幡市)との間に地狭を形成して、その地峡には淀川が流れているため湿地や沼があり天王山と淀川の間はより狭くなるため昔から西国から京都に行く要所になっていた。この天王山の要所をめぐって幾度も戦いが行られてきました。

本能寺の変から山崎の戦いまで

天正10年6月2日に本能寺の変で主君織田信長を討った明智光秀 は、すぐさま近江を平定して京に戻り、そのまま信長の三男織田信孝と丹羽長秀のいる大阪に出陣の準備をするため洞ヶ峠(京都府八幡市)で筒井順慶待ちました。筒井順慶は始めのうちは光秀に加勢していましたが、9日になると居城郡山城で籠城支度を始め、光秀の使者が来ても出陣する気配を一向しませんでした。一方光秀の娘の嫁ぎ先でもある細川忠興・藤孝親子も本能寺の変後すぐ信長の喪に服すため剃髪し光秀の使者が来ても加勢しませんでした。洞ヶ峠で孤立無援の状態の光秀に羽柴秀吉 来るの報を知り、予想外の進軍の速さに山崎での決戦をせざるを得ない状態でした。山崎は天王山と淀川で平坦が狭いところに沼があり大軍を迎え撃つ適した場所だったのです。

天下分かれ目の戦い山崎戦いとは

一方中国地方で毛利方と戦っていた羽柴秀吉でしたが、主君織田信長が討たれるの報を知り急遽備中高松城の清水宗治と和睦、いわゆる中国大返しで京都に進軍して京の西の玄関口の山崎(現大山崎町)で明智光秀軍と激突した戦いが山崎の戦いです。                                    

明智光秀軍

明智光秀 5000(本陣 御坊塚)斎藤利三・柴田勝定 2000溝尾茂朝 3000伊勢貞興・諏訪盛直・御牧兼顕 2000 松田政近・並河易家 2000 津田正時 2000 

羽柴秀吉軍

羽柴秀吉軍(丹羽長秀・織田信孝等)30000(本陣 宝積寺)高山右近 2000中川清秀 2500池田恒興・加藤光泰 5000                                                                                                  

山崎の戦いの両軍の配置

                                                              

6月12日に円明寺川に両軍布陣しました。明智光秀軍総勢16000人対して羽柴秀吉軍30000とも40000人とも言われる大軍でした。13日の夕方に中川隊に伊勢・諏訪・御牧隊が突撃し戦端は開かれました。同時に高山隊と斎藤隊も激突しました。始めのうちは明智軍優勢で戦いっていましたが、秀吉軍は堀隊・中村隊を投入し、天王山から秀長隊・黒田隊が松田隊・並河隊に襲いかかった。戦局の潮目が変わったのが池田隊・加藤隊が沼地を進軍し津田隊を襲撃しました。津田隊は元々本能寺の変に属した兵で士気が高くなかったため混乱し敗走し左翼の一角が崩れ、光秀本陣に迫まりました。そして丹羽隊信孝隊が戦闘に加わったことで一気に決着がつきました。

                   

光秀が本陣(御坊塚)を置いた恵解山古墳
秀吉が本陣を置いた宝積寺

光秀軍は総崩れなり本陣にいた光秀隊は勝竜寺城に退却しました。勝竜寺城は平城だったため収容人数が限られていたため、大半の兵が離脱して残った兵は1000人足らずになったと言われています。そして勝竜寺城では戦況の挽回が出来ないと思い、その夜わずが数名の供の者と城を脱出し近江坂本城を目指す途中の小栗栖の竹藪で落ち武者狩りに遭い落命しました。

              

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