明智光秀最後の地 明智薮 

歴史

明智光秀の最後の地 明智薮

昨年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主役になった明智光秀の最後の地、京都の明智薮を訪ねました。

  • 光秀とはどんな人?
  • 大山崎の戦い 
  • 明智薮の行き方
  • 最後に

光秀とはどんな人?

明智光秀の前半生ははっきりしません。生まれた年も永正13年(1516年)や享禄元年(1528年)の説があり、出生地も美濃や近江など説があり謎に包まれています。青年期に斎藤道三に仕えますが、道三とその子義龍の争いの中、道三に味方したため長良川の戦いで敗れてしまいます。その後越前朝倉義景を頼り仕えたようです。越前での暮らしは貧しく妻の煕子が黒髪を売ったという逸話もあります。そして、越前で室町幕府の将軍足利義昭の足軽衆となり各地の大名と手紙等のやり取りを任されました。その大名の中に織田信長がおり、その縁で家臣になったようです。織田信長の家臣になってからは各地を転戦し武功あげて、近江や丹波等領地にして活躍していました。天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変を起こして主君織田信長を自害させました。本能寺の変の原因は諸説あり未だに謎のままです。

大山崎の戦い

本能寺の変で主君織田信長を自害させたのち、自ら政権を作ろうとした矢先に中国備中高松城を攻略していた羽柴秀吉が中国大返しで京都に迫っていました。6月13日天王山の麓の山崎で迎え撃つことになりました。羽柴軍27000人(最大40000人とも言われています)対して光秀軍17000人(最小10000人)で序盤奮戦も数で圧倒され劣勢になり勝竜寺城に退却しました。そしてその夜近江の坂本城を目指し勝竜寺城を脱出し途中の小栗栖の薮で落ち武者狩りに遭い命を落したのです。

明智薮までの行き方

  • 京都市営地下鉄東西線醍醐駅から京阪バス3・87・88・312(六地蔵駅行き)で南小栗栖のバス停から徒歩10分
  • 車の場合は三井リパーク小栗栖南後藤町の駐車場から10分程度(余談ですが駐車場の裏が明智薮ですが私有地でフェンスがあるため行くことが出来ませんでした)

南小栗栖からは北に30ⅿ程、駐車場からは南100m産婦人科から東の道に入ります。

50ⅿ程歩いて行くと二股に分かれいるので看板が出ている右に入ります。

10m程歩いていくとまた二股に分かれているので看板出ている右に入ります。

入ったらすぐに看板が出ているので右に入ります。

そのまま真っ直ぐ行くと家の敷地ようなところに出ます。少し分かりにくいと思いますがその先に抜け道があり砂利道の真ん中には黄色い塗料で線が引いてあるので、内側に沿って進みます。

砂利道を進むとすぐ石碑が有り、そんまま壁沿いに進むと20ⅿ程で明智薮があります。

明智薮

最後に

日本を揺るがす大事件を起こした明智光秀ですが、妻を愛し側室を置かず善政を敷き領民に愛された名君でありました。昨年大河ドラマになり世間にも浸透したと思います。

辞世の句

逆順二門無し大道心源に徹す 五十五年の夢覚め来たれば一元に帰す

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