- 坂上田村麻呂はどのような人物
- 阿弖流為はどのような人物
坂上田村麻呂とはどのような人物
坂上田村麻呂は天平宝字年二年(西暦758年)に苅田麻呂の子と生れた。。出生地は奈良県など言われていますが、明らかなことは分かっていない。田村麻呂が歴史に登場したのは、延暦四年(西暦785年)28歳で従五位下に昇進したした時でした。田村麻呂の身長は五尺八寸(約180㎝)の大柄で胸板も厚く、向かい合うとあまりの背の高さから仰け反っているかのように見えた。祖先は中国の後漢の孝霊帝の子孫で応神天皇時に朝鮮を経由して日本に来たようです。一族は武人の家系であったため田村麻呂も騎馬や弓に秀でていた。怒った時には猛獣も斃れ凄まじい形相に変貌し、その反面笑顔を見せれば赤子も懐くほどの優しい言われる戦場での勇猛さが分かります。また「公卿補任」には“毘沙門天の化身、来たりわが国を護る”と書かれている。清水の舞台で有名な清水寺を創建する。
阿弖流為(アテルイ)とはどのような人物
阿弖流為の生年月日や出生地や容姿など不明です。阿弖流為が歴史に登場したのは、「続日本記」には“夷大墓公阿弖流為”と書かれた時でした。大墓という地域は不明ですが、ただ朝廷軍を胆沢で迎え撃っていることから胆沢周辺の族長だったと思われます。東北の蝦夷は縄文の狩猟文化から、山野での少数の戦闘が得意であったのではないかと思われます。 阿弖流為も勇猛果敢でゲリラ戦などの戦術に長けた人物ではなかったかと思われます。
朝廷と蝦夷の戦い
・581年 数千の蝦夷が辺境の村を侵略し略奪をする。朝廷軍は蝦夷の首領綾粕をを捕らえ大和に連行する。綾粕は大和朝廷に服従の意を示す。
・7世紀に入ると蝦夷が天皇に拝謁することが定着し服従の姿勢を示す。
・638年 蝦夷が入朝しなかったため上毛野形名(かみつけののかたな)を将軍として派遣する。辛うじて撃破する。
・647年 朝廷は新潟市に淳足(ぬたり)柵を造り、柵戸(屯田兵)を置く。今の信濃川河口周辺。柵とは城砦です。この時点では日本海は信濃川河口周辺までが朝廷の勢力範囲だったようです。
・648年 淳足柵から北上し磐舟(いわふね)柵を造り、新潟県村上市までを勢力範囲している。
・658年 阿部比羅夫(あべのひらふ)が舟180艘を率いて秋田と能代の蝦夷を討った。
・659年 再び 阿部比羅夫(あべのひらふ)が舟180艘を率いて 北上し、恭順を示す蝦夷ろと饗応する。大和朝廷は蝦夷と融和政策を進められて50年間は大規模な戦闘は起こっていないようです。
・710年 蝦夷が反乱し上野毛朝臣広人(かみつけぬのひろと)が殺される。多治比県守(たじりのあがたもり)と阿部駿河を将軍して派遣しました。どのような結果だったのかは記録に残っていません。
・724年 海道(太平洋沿岸部)の蝦夷が反乱し佐伯宿禰(さえきすくね)と児屋麻呂(こやまろ)が殺される。4月に藤原宇合(うまかい)を5月に小野牛養(うしかい)を将軍して派遣しました。この後どうなったかは記録に残っていません。
阿弖流為(アテルイ) 登場
・774年 太平洋側の蝦夷が蜂起し桃生(ものう)城に侵攻して一時占拠するがすぐに鎮圧される。このころ胆沢と志波(しわ)の蝦夷が最強の賊と思われ、この二つの地域を攻略することが目標となる。(胆沢は奥州市水沢辺り、志波は胆沢より50キロほど北上した盛岡市津志田辺り)
・776年4月 志波の蝦夷が反逆し、陸奥2万出羽4千の軍と戦う。朝廷軍は苦戦を強いられたため、関東の坂東武士を援軍させてようやく鎮圧する。
・同年11月 陸奥の軍勢3千で胆沢の蝦夷を討つ。
・777年 出羽国で蝦夷が反乱したが、記録が残っていなかったため詳細は不明。
・780年 伊治公呰麻呂(これはるのきみあざまろ)が反乱し按察使紀広純(きのひろずみ)を伊治城で殺害する。伊治公呰麻呂は俘囚(ふしゅう)で朝廷に帰属した蝦夷であった。伊治城と東北の拠点多賀城が占拠される。
・788年 紀古佐見が征東大使して出征する。蝦夷は胆沢を本拠地として 阿弖流為(アテルイ)が率いていた。 総数2500人程度。阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ) 軍は大和政権軍の陽動作戦を見破り大勝する。朝廷軍は死傷者を合わせて1400人程度出たと記録されている。
坂上田村麻呂登場
・794年 初代征夷大将軍大伴弟麻呂、征夷副将軍坂上田村麻呂以下が軍勢10を擁して進軍する。詳細な記録は無いが、蝦夷を制すという記録が日本紀略に記されている。 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ) は捕まったという記録は無かった。
・796年 坂上田村麻呂は陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守将軍となる。翌年1月征夷大将軍なり、東北における軍事・行政の最高責任者になり、蝦夷に対して、養蚕や開墾や帰順など融和政策と進める。 阿弖流為(アテルイ)モレ (母禮) は恭順せず抵抗したと思われる。
・801年 坂上田村麻呂と 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ) が戦うが詳細は不明。同年9月「夷賊を討伏す」だけ奏上している。 阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ) は取り逃がす。
戦いの終わり
・802年 大和政権は胆沢に 胆沢城を造営する。造営中に 阿弖流為(アテルイ)母禮(モレ)が500人を率いて大和政権に降る。このころ勢力も衰えて主としていた胆沢も朝廷の支配下になったため抵抗やめ降ったと思われる。坂上田村麻呂は両名の人柄に触れ、殺すのには惜しいと思い、共に京に連れ帰り朝廷に対して助命嘆願する。(和睦のため京へ行きったという説もあり)坂上田村麻呂の意見を聞き入れられず、 阿弖流為(アテルイ)母禮(モレ) は河内国植山あるいは杜山で処刑される。
・811年5月23日坂上田村麻呂死す(享年54歳)京都の山科椥辻の地に武装し陸奥の方角を向けて立ち姿のまま埋葬される。死後も平安京の護ることを願ったと思われる。
最後に
坂上田村麻呂死後も何度か東北地方での反乱があったようですが、かつて 阿弖流為(アテルイ) がいた時のような勢いは無かったようです。その後平泉に奥州藤原氏の祖先が治めていくことになります。坂上田村麻呂はかつて何度も朝廷を苦しめた阿弖流為(アテルイ)を最後に許し助命嘆願までしていることを考えると好敵手で人格も認め、蝦夷を治めて行く上で欠かせない人物だと考えたのではないでしょうか。天皇からも部下からも慕われて、毘沙門天の化身を言われるぐらい戦いに強くそして今まで戦ってきた相手を許す慈悲深い坂上田村麻呂の人物像に触れられた思いです。
書くうえで土居洋三さん著「アルテイと田村麻呂」を大変参考させていただきました。
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